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20代フリーライター。自由に話せる場所が欲しかった。

世界が明日ディストピアになるかもしれないと誰もが危惧する作品|マーガレット・アトウッド『侍女の物語』読書感想

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もし今日、突然、今この瞬間!

世界のルールが180度変わり、管理される世界になったとしたら、

その〈管理〉が耐えられないものだったとしたら、私に何ができるのだろう?

 

私は反抗するのだろうか? それとも受け入れ、従順になるのだろうか?

「自由」とは、何だろう?

 

マーガレット・アトウッド著『侍女の物語』は、そのようなことを考えさせるディストピア小説だった。

 

『侍女の物語』は妊娠マシーンにされたとある女性の話

今回私が読んだ小説は、マーガレット・アトウッドが書いた『侍女の物語』。

ジャンルはディストピア小説で、退廃的な雰囲気が漂う近未来の話だ。

 

退廃的ななのに近未来?

そう。少しおかしなことを言っているように思えるのだが、これは核などの影響で出生率が低下した、キリスト教原理主義的な国家のお話なのだ。

 

読後の感触的には未来SFというよりも、ナサニエル・ホーソーン著『緋文字』に近いものがある。

『侍女の物語』のあらすじ

ギレアデ共和国の侍女オブフレッド。彼女の役目はただひとつ、配属先の邸宅の主である司令官の子を産むことだ。しかし彼女は夫と幼い娘と暮らしていた時代、仕事や財産を持っていた昔を忘れることができない。監視と処刑の恐怖に怯えながら逃亡の道を探る彼女の生活に、ある日希望の光がさしこむが……。自由を奪われた近未来社会でもがく人々を描く、カナダ総督文学賞、アーサー・C・クラーク賞受賞作。

ハヤカワepi文庫より

 

1985年に発表されたベストセラー小説。

近未来のディストピア世界だが、刊行が昔(私が生まれる前)なので、おそらく21世紀頃を想定した話なのではないかと。

 

著者のマーガレット・アトウッドは2017年にフランツ・カフカ賞を受賞している様子。

「現代の世界文学における最も偉大な作家の一人であるカフカの作品のように、自らの出自や国民性、属する文化といったものにとらわれない読み手たちに向けて書こうとする現代作家の、芸術的に特に優れた文学作品を評価すること」とのこと。

 

『侍女の物語』を読もうと思ったきっかけ

私が『侍女の物語』を知ったのは、友人におすすめされたからだ。

 

友人はディストピア小説やSF小説をよく読む人なので、そんな彼女がおすすめするならば、よっぽど面白い話なのだろうと思った。

実際にけっこう興味深い本だったし、いろいろなことを考えたくなるテーマだった。

 

巷ではやれ冗長だ、やれ話が長いだ、やれすぐに脱線するだの言われているようだけれど、その点は否めない。

が、エピソード一つ一つは面白い。

どのエピソードが欠けていても『侍女の物語』は成立しないのだろう……とは思った。

 

地の文はずっと一人の女性(主人公)視点の一人称で進むので、案外量に対して読みづらいわけでもない。

『侍女の物語』のようにもし明日世界のルールが変わったら

この物語を読んだいちばんの感想は「明日世界が突然、ギレアデのようになったらどうしよう」というものだ。

 

ギレアデ共和国は宗教色が強く、女性の権利が奪われた世界だ。

今、私たちが生きている世界では科学や技術が発展し続けている。

そして今日もどこかで核の実験がなされ、核融合炉は稼働している。

そしてその一方で、しきりに女性の権利、男女平等が叫ばれている。

 

ギレアデ共和国はそこから後退した世界だが、いつ私たちの住むこの世界が、あの国と同じように昔に逆戻りするかはわからない。

明日突然、日本が、または世界全体が、ギレアデ共和国になるかもしれない。

 

そうなったとき、私には何ができるだろう?

名前を奪われ、男性の所有物を表すように「オブ○○(男性の名字が入る)」 という名前を与えられ、子作りに貢献できるのだろうか?

到底できない。

 

化粧水の与えられない世界で、肌の潤いを保つためにバターを塗れるだろうか?

したくない。

 

話すことを禁じられた世界で、囁き声と定型文だけで満足できるだろうか。

書くことを禁止された世界で、統制された世界で、支給された制服を着ることを受け入れられるだろうか。

 

私は到底受け入れられないと思う。

 

この物語にはレズビアンの女性が登場する。 名前をモイラという。

覇気があり、頼れる姉貴分のような性格だ。

侍女生活で気が狂いそうになった仲間を律して、その場に留まらせたような力強さがある。

小母を刺し、服を奪い、逃亡したこともある。

 

このモイラも侍女だったということは、加えて後半でクラブ(描かれ方から恐らく風俗的な接待もある)にいたということは、彼女も男性を受け入れないといけなかったにちがいない。

もちろん、好きでもなんでもない人と寝るのは、誰にとっても苦しいだろう。

 

このモイラという女性にレズビアンの属性が与えられたのは、その不条理性(=好きでもない人と、自分が望んだわけでもなく寝させられるこ屈辱屈辱)を強調するためだと考えられる。

 

私もモイラと同じ、いわゆるセクシャルマイノリティだ。

モイラと同じようにレズビアンかどうかはわからないけれど、人に性的欲求を抱くことができないアセクシャルというやつで、過去の経験から性嫌悪を伴う。

ギレアデ共和国では、そんな、私のような各個人の特性など考慮されない。

 

私がギレアデ共和国民だったら、「吐き気がするほど繋がるのが無理なんです」と主張したところで聞き入れられないか、洗脳されるか、<不完全女性>のレッテルを貼られ核汚物の処理場などに派遣されて死ぬに違いない。

 

「子宮が正常な女性は子どもを産む」と強制されることがどれだけ苦しいのか。

女性が子供を産むマシーンだと考えることがどれだけ危険な思想で、どれだけ非人道的なのか。

そして男女同権、ひいてはサステナブルな社会構築がいかに普遍的でまっとうな主張なのかを考えさせられる話だ。

『侍女の物語』はいつか起こりえない話、ではない

サステナブルな社会構築とは、有害物質を出しすぎず、人間にとっても動物にとっても、地球にとっても優しい、持続可能な社会のことを言っている。

 

人が作り上げてきた今までの文明や性別に囚われず、どちらかの性がどちらかの所有物にならない自由な世界、セクシャルマイノリティという枠組みに生きる自由、好きな人を愛し、好きなように生きることの大切さ──かつてギレアデと呼ばれる前に生きていた人々は、それらを保証されていたはずだった。

 

しかし奪われた。

ギレアデができたからである。

ギレアデができたのは、核や化学物質で土壌が汚染され、正常な子宮を持った女性が著しく減少したためだ。

もし、核がなかったら、ギレアデは生まれなかったのかもしれない。

 

この物語を、ギレアデ共和国を今こそ私たちが学習すべきレガシーだと考えるならば、私たちは自分たちの暮らす自由を守るために、地球や生物に優しくしなければならないのではないか。

 

サステナブルな社会。サステナビリティ! 実際、よく聞く言葉だ。

さてさて『侍女の物語』という最悪のシナリオを避けるために、私には何ができるだろう?

選挙権を行使してマイバッグを持参して……そんな小さいことしか浮かばないのが現実なんだよね。

選ぶことができる自由に感謝するだろう

『侍女の物語』には下記のような文章がある。

 

自由には二種類あるのです、とリディア小母は言った。したいことをする自由と、されたくないことをされない自由です。無秩序の時代にあったのは、したいことをする自由でした。(p.54)

 

したいことをする自由を与えられていた無秩序という時代にあたるのが今の私たちが生きる時代だ。

 

着たい服を着て、歌いたい歌を歌い、人と話すも話さないも自由。

話したくない人と話さないこと、したくない恋愛をしないこと、信じたくないものを自分から遠ざけることすらも、すべて「したいことをする自由」だと言える。

言い換えれば、話したくない人と話さないこととは、絶縁する自由、そして遠ざける自由なのだ。能動の意思。

 

仮に私が、人に恋愛感情を持たず、欲求を持たないこと、そしてそれらの「NO」を正当に表現することも、したいことをする自由。

 

これらの豊かさを再認識させられるし、この自由を守りたい、守らなければならないと思わせられるような物語だったと思う。

今の時代は、セクシャルマイノリティやヴィーガン、中高生の制服自由選択、夫婦の別姓などなど、さまざまな権利や選択肢が注目され、より「自由」が追求されている。

 

私はどちらかというとアセクシャルという当事者だからセクシャルマイノリティに理解が深いのだけれど、ヴィーガンのことはよく知らなかったりもする。

 

『侍女の物語』を読んだあとは、私にとってのヴィーガンのように、まだ知らない「自由」について考えてみるのもよいなぁ……、そう思わせるような気持ちの変化があった。

 

以上。

どうやら、「自由には二種類あるのです」と言ったリディア小母が絶大な権力を持っている……という続編ストーリー『誓願』も出ているようなので、それも読んでみようと思う。

 

久しぶりによい読書経験をした。

ご静聴ありがとうございました。